④クリスチャン洗礼

クリスチャン難民

僕はクリスチャン。周知の通りだ。ちょっと普通のクリスチャンと違う経験を持っている。それはクリスチャン難民時代が長いことだ。クリスチャン難民、そんな言葉が存在するか僕もわからない。つまり色々違う教会に行ってみるがなかなか教会に根付かないクリスチャンのことだ。属する場所がない。

自分に問題があると思っていた時もあった。自分に忍耐力がないとか本当に自分はクリスチャンなのか、そう自分に問い正したことも。僕の難民生活は長い、クリスチャンになって20年になるが、10数年間は難民だった。ちなみに今は毎週楽しんでカナダの田舎町にある2、300人集うキリスト教会に通っている。賛美の時間が特に好きだ。涙流すことも多い。

なぜ難民に?一言で言えば、馴染めない。僕は納得してクリスチャンになった。しかし教会にいくと嘘くさい人が嫌に目に付く。皆がサークル活動で教会に来ているように見えて仕方がない。不自由そうにも見えた。それなのに自由そうになったかのように振る舞っている。もちろん成長過程で FAKE IT TILL MAKE ITと言う言葉があるように必要なことはわかる。それがダメだった。「自分も無理強いて教会にくるとこんなふうになってしまうのかな」と言う嫌なものが自分の中にあった。

もちろん教会の必要性や皆で賛美するなどの素晴らしさは知っているだけに、なおも葛藤もした。違う教会に通ってみるが「やっぱダメだ」の連続。信仰と文化って切るにきれないものだろうなと言うのが僕の今の答えである。僕は理性で何かを成し遂げる人ではないので自然と教会から遠のいたのは言うまでもない。

不明 のアバター

紹介 Tatsuo Kan

人生って、自分は何が好きで何によって喜びを得られるのか、それを探し求めるところに価値がある。 試行錯誤し、やっとの思いで積み上げた人生に真の重みがある。 重みを得るにはやはり最大限の素直さと勇気(決断)と本気が問われる。 その重みを差し出して誰かの為に用いてもらおうと手放せた時、 重みは本物の重みとなり愛と奇跡に変わる。

0 comments on “クリスチャン難民

コメントを残す