④クリスチャン洗礼

クリスチャンの軸

体に軸があるように、クリスチャンにも軸を持つことは大事だと僕は思う。クリスチャンになってしまうと、いろんな事がもう分かってみたいな気になるものだ。特に神学にかじったりすると尚更に分かっていることとで出来ていることの差がわからなくなる。クリスチャンは、常に2つのことを認識する必要があると僕は思う。

■何を持って 自分はクリスチャンだ と言えるのか?

以下は敬愛するハーベストタイム 中川牧師のHPからの引用

福音の三要素とは、①キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、②キリストは葬られたこと、③キリストは三日目によみがえられたこと、この3つです。救われるためには、この福音の三要素を受け入れる必要があります。

とってもシンプルだ。ここにすっごく真実が詰まっていると僕は思う。これを概念ではなく自分の言葉で語られる人はどんだっけいるかな。罪って何? どうして葬る必要がある?なぜ甦られないとダメ?など。

■クリスチャンとノーンクリスチャンの違いは 何を持って証明する のか?

僕たちクリスチャンはクリスチャンと言わなくとも人から見て、「あの人は何かが違う」と見られていたいものだ。じゃーどうしたら、そうなるのか?どう言う状態がそのようにみられるのか?

一番わかりやすく極端なのは踏絵だろう。踏絵キリスト教が禁止された江戸時代に、キリシタンでないことを証明するために、キリストやマリアの絵像を踏むことをクリスチャンに強いられた。最も若かった殉教者は13歳の少年だったという。

確かにこれは極端の例かもしれない。これに値することは日常の中でたくさんあるような気がする。最も目にしやすいのは、人がチャレンジを受けている時の捉え方でしょう。クリスチャンはチャレンジを神様からの試練と考える。チャレンジは神様とコネクトできる大切な局面であり、神様とのコネクトを求めてチャレンジに挑む。その結果、自分と神様にしかわからない、味わえないもの(ミラクル)そこに生まれる。その体験が糧となり、クリスチャンとして生きていける。そして、またその糧を得ようと神様との繋がりを求める。そうしていると生きるそのものがゲームのようであり、舞台で物語を演じるような楽しさがある。それがクリスチャン生活だと思う。そうしているうちに神様を称えずにいられなくなる。

不明 のアバター

紹介 Tatsuo Kan

人生って、自分は何が好きで何によって喜びを得られるのか、それを探し求めるところに価値がある。 試行錯誤し、やっとの思いで積み上げた人生に真の重みがある。 重みを得るにはやはり最大限の素直さと勇気(決断)と本気が問われる。 その重みを差し出して誰かの為に用いてもらおうと手放せた時、 重みは本物の重みとなり愛と奇跡に変わる。

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